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思索雑記

初期仏教、その他日常についての個人的思索、検討結果についての雑記ブログ

色受想行識 まとめ直し

再びの色受想行識について。

より簡単にまとめられたような。

 

心の働きとは以下のフローである。(上から順に)

色(入力される刺激、対象)

受(感覚機能。感覚の発生。)

想(発生した感覚に対しての Good or bad という判断)

行(衝動の発生)

識(以上の感覚、判断、衝動を意識・自覚すること)

 

想がネック。

ここが下した判断がGoodなら衝動は「欲しい」「どうやったら手に入る?」などの欲系の衝動が。

Badなら、「どう処理すれば?」「どうにか潰せないか?」などの破壊系の衝動が。

いずれにせよ心はその衝動に追い立てられる状況におかれる。

焦り、不安、心配、怒り、恐怖などの感情はすべてこの衝動作用そのものだ。

 

ブッダが発見した道は、この衝動作用を超える道。ここから離れる道である。

その方法はGood/Badという判断の枠組みから離れるというもの。斬新だ。

ではその判断の枠組みからいかにすれば離れられるのか?

それは、対象・刺激というもののが「永遠ではない」「不完全である」「変わらない部分、などというものはない」という性質を持っていることに気付くことで可能になる、とブッダは語ったわけである。(仏教用語的に無常・苦・無我の三法印と呼ばれるもの)

 

あなたが欲しがっているもの。それは永遠に変わらずそこにあり続けるのですか?

あなたが壊したがっているもの。それは決して消えないようなものなのですか?

 

そういう視点で物事を見つめることで、Good/Badという枠組みとは別の道に向かうことになる。いわば第三の道。(仏教用語で言うところの中道にあたるだろう。)

消えてなくなるとわかっているものをいつまでも強く欲し続けたり、ムキになってやっつけようとし続けるということは非常に困難。やればわかる。

 

以上、改めてまとめてみた。

 

 

色受想行識 まとめ直し

再びの色受想行識について。

より簡単にまとめられたような。

 

心の働きとは以下のフローである。(上から順に)

色(入力される刺激、対象)

受(感覚機能。感覚の発生。)

想(発生した感覚に対しての Good or bad という判断)

行(衝動の発生)

識(以上の感覚、判断、衝動を意識・自覚すること)

 

想がネック。

ここが下した判断がGoodなら衝動は「欲しい」「どうやったら手に入る?」などの欲系の衝動が。

Badなら、「どう処理すれば?」「どうにか潰せないか?」などの破壊系の衝動が。

いずれにせよ心はその衝動に追い立てられる状況におかれる。

焦り、不安、心配、怒り、恐怖などの感情はすべてこの衝動作用そのものだ。

 

ブッダが発見した道は、この衝動作用を超える道。ここから離れる道である。

その方法はGood/Badという判断の枠組みから離れるというもの。斬新だ。

ではその判断の枠組みからいかにすれば離れられるのか?

それは、対象・刺激というもののが「永遠ではない」「不完全である」「変わらない部分、などというものはない」という性質を持っていることに気付くことで可能になる、とブッダは語ったわけである。(仏教用語的に無常・苦・無我の三法印と呼ばれるもの)

 

あなたが欲しがっているもの。それは永遠に変わらずそこにあり続けるのですか?

あなたが壊したがっているもの。それは決して消えないようなものなのですか?

 

そういう視点で物事を見つめることで、Good/Badという枠組みとは別の道に向かうことになる。いわば第三の道。(仏教用語で言うところの中道にあたるだろう。)

消えてなくなるとわかっているものをいつまでも強く欲し続けたり、ムキになってやっつけようとし続けるということは非常に困難。やればわかる。

 

以上、改めてまとめてみた。

 

 

数について

仏教とは全然関係ないのだが、

今日は数というものについての所感。

 

数、とはそもそも何か?

検討した結果、これは一つの情報伝達手段である。

現代では主に10進数というルールに基づき、

量・大きさ・程度の強弱などを数値という概念化した表現方法によって置換し、表す。

これは言語というものが対象を区分したり、指定したりする為に音声や記号を使用して概念化し扱えるようにしたことで情報伝達を可能にしたのと構造としては同じだろう。

数というものはそれを力の強さや量などのスケール感を表すのに使うための発明だろう。共通のルールに基づいて現象を数という概念表現で表せば比較が可能になる。

比較によって規模や程度の強弱を人から人に伝えることが出来るようになる。

 

便利な発明をしたもんだ、と思う。

数学というのはその数という概念の上手な使い方の研究発展の歴史なのだろう、と思える。

 

簡単だが、以上で終わる。

悟りマニュアル 2016.10.24

心の働きというのは以下の1~4の運動プロセスの軌跡。

①外部刺激入力

②感覚の発生

③発生した感覚についての価値判断

④判断に応じた衝動の発生

⑤前過程の流れの認識。

これは、仏教で言うところの色受想行識のことである。

 

煩悩というのは直接的には衝動を指すと考えてよい。

不安系、不満系、怒り系、焦り系などの衝動が心には生じうる。

判断に応じて衝動が生じるのは、質量をもつ物体には重力が生じるのと同程度の先天的性質。重力の作用を加味して科学技術が振舞うように、判断に応じて衝動が生じるという関係性を加味して心の制御を計画する。

 

③の価値判断のフェーズにおいて、入力された刺激から生じた感覚に対して『良い』と思いなせば欲しい・手に入れようという衝動が生じる。『悪い』と判断すれば、避けよう・消そう・遠ざけようという衝動が生じる。一般的に言えば、好き嫌いが発生する。

好きだという判断は、手に入らない状態に対して悶々とした衝動を引き起こす。

嫌いだという判断は、それと触れなければならない状態に対して怒りの衝動を引き起こす。

衝動の母はあくまで判断。判断を無価値化することで衝動は消失する。

 

例えば、絶望というのは「良い」と思っているものがある状態で、それが「完全に手に入りそうもない」と判断せざるを得ないような状況に追い詰められた際に生じる衝動である。さらに、死にたいという絶望状況にありがちな衝動は、死んだ状態の方が自分にとってはラクなのではないか?という判断から生まれた欲求衝動の発現形態の一つに過ぎない。結局、判断が衝動をつくっているだけだ。

 

判断の無価値化はこれとは異なる。

無常・苦(=空虚、無価値)・無我・生老病死苦の視点を判断基準に組み込むことで、

価値判断機能がその対象刺激を元々虚しいもの・無価値なものと判断する。

つまり、「あった方が良い」「無い方が良い」という判断そのものを無価値化するということである。実のところ、それがあっても大したことない・それが無くなっても大したことが無いという判断に至ることを指している。そうなると、刺激に対しての判断がそれを無価値なものと見なすため、なんと驚くべきことに衝動が生じなくなるという結果を生む。無価値だと判断したものに対しては欲しいとも遠ざけようとも思わないという反応を示す。そこにおいては、欲しいという焦りも、遠ざけたいという怒りの衝動も共に生じえない。

その衝動が無い状態というのは、言うなれば平穏。心をざわつかせ悩ませる衝動が無いのだから。その状態を味気ない・つまらない、と判断すれば嫌おうとする衝動が心に生まれるだろう。

 

 知っておいて損が無いのは、判断が衝動を生み続けていて、その衝動が心を追い立て・追い回し・責め立て・追い詰め・縛り上げ・不安にさせ・不満を抱かせているということ。それに気づけば、何らかの対処が出来るというものだ。

 

<具体的実践フロー>

①イライラ、そわそわ、不満、怒りなどの衝動が内面に生じていたらそれにまず気付く

②その衝動が生まれる際の原因となっている自分のしている価値判断は何か観察する。

 ヒントは「~であるべきだ」「~の方がいい」「~が嫌いだ」「~が好きだ」という判断。

③「私はそう判断しているけれども、果たして本当にそうなのか?その考えは的確か?」

 「こう判断する必要は本当にあるのか?」と一度まず自分に問いかける。冷静に。

④「所詮、人は老い衰えて死ぬ。それでも価値があるというのか?」

 「たとえそうなったとしても、それは永遠か?無常ではないのか?」

 などと、さらに自分に問いかける。

⑤「実際のところ老いて死ぬ、というのはどういうことか?」

 「ここで言う無常とはどういうことか?」と自らに問う。

 そして、納得できるまで現実を観察する。老い衰え死んでいくということなら、老い衰え死にそうな老人というものがどのような状態なのかよく観察する。いずれ自らもそうなることもきちんと念頭に置いて。

 無常についても、生まれたものが変わりゆくこと、消え去ることを観察してみる。

 理屈を理解することではなく、現実に起こっていることを自分の眼と頭できちんと見つめるということが重要。事実を観察を通して発見することで納得感を持った新たな事実認知という判断基準の更新の機会を得ることになる。

判断基準の変更

前述したように、判断行為が次の衝動を構成する原因となる。

故に、煩わしい衝動からの解放を目指すならば判断を無効化しなくてはならない。

 

といっても、その方法は既にブッダによって示されており、いわゆるヴィパッサナー瞑想を行えばよい。

観察瞑想と呼ばれるヴィパッサナー瞑想によって、判断機能が拠り所としている判断基準となる情報をアップグレードするのだ。

その更新内容はというと、現象・存在・認識が無常(あるいは空虚さ、不確かさ)であるという事実、生命は生老病死苦という枠組みの中にいるという事実などを盛り込むことと言ってしまってもいいだろう。

 

観察、という行為は判断基準の更新に有効な行為となる。

なぜなら、知らなかった・気付かなかった事実を知るというきっかけを作ることが可能であるからである。

今まで気づかなかった事実を確認したとき、人間の知的機能においてはそれは判断行為の材料にされる。例えばそれは、初めて犬と触れ合った子供が、いきなり嚙まれたとすると、「犬というのは危険だ!」と思うようになるのと同様の判断基準の獲得プロセスである。

 

では次に、ブッダがなぜ無常や生老病死苦などを観察することを説いたのかだが、それは判断基準の中にそれらの情報が組み込まれることで、各種の煩わしさを伴う衝動(煩悩とも言える)の産生プロセスを無効にする効果があるからと言える。

 まず、物事が無常・苦・無我などであるという事実を現象の観察を通して発見する、という過程を体験することで、それは新しい情報として自然な形で判断基準に組み込まれる。

そして、実のところ新たに判断基準に組み込んだその事実というのは「物事には価値がない」ことを判断機能が判断するという結果を生む情報なわけである。

事象は無常で不安定で一時的で固有の実体などなく移り変わって消えてなくなる性質のものであり、また、生きることは苦しみの感覚によって行動が規制され、老いて死ぬか、病んで死ぬか、事故などの外傷で死ぬかする状態の枠組みの中にいることである。

何をしたとしても、その枠組みの中にいる。

何をしても、全て跡形もなく消えてしまう。

消えるとわかりきっている、そんな当てにならない幻と同質の物事を本気で愛せるだろうか?

何をしたって、苦しみに取り囲まれそれらが増加していく状況は変わらない。

その事実を分かったうえで、そんな状況を愛せよと言うのか?

当然、まともだったら醒めることになる。

(醒めないとしたら、事実を否定するような別の判断基準を抱えている。それは俗に思い込みと言われる。思い込みは実際のところ概念的産物なので、事実の観察を通して現実に直面していけば破壊することは容易だ。しかしながら、思い込みを愛しすぎている場合、現実を否定し思い込みを守ろうとするという態度が形成される。つまり、その概念的空想世界に逃げ込んで引き籠って現実の世界をひたすら否定し続けるような態度だ。これはこれでその人の選択上の自由だが、現実に即さないので思い通りにならないという強い不快衝動がその本人を襲い続ける結果を生むと思う。)

 

醒める=煩わしい衝動が生まれなくなる、という結果を生む。

これがブッダの発見した煩悩を滅ぼし執着を超える方法論だろう。

本当によく見つけ出した解法だ。天才的洞察力と冷静さと知的能力だ。

あくまでも実現可能な現実的アプローチの態度を崩さなかったところが驚異的だ。

実にすばらしい。

 

だが、世界というのは騒いでいる割にはこの方法論の実用性に気付いていないと思われる。心の問題など、ブッダの時代に既に解決方法が示されているというのに、現代においても社会問題などと言われて扱われている。

当の私も、このブッダの方法論に出会うまではまったく同様の条件だったが。

それぐらい、社会的には認知されていない。浸透していない。活用されていない。

非常に不思議なことだが、これもひとえに宗教というベールでくるまれてしまっているからということが原因か。また、宗教が形骸化してしまっていることの証左か。

ただ、方法論が現代にも情報として伝わっていることは本当に奇跡的幸運と言える。

 

以上、参考までに。

判断回路について

色受想行識、という心における認識発生の説明が仏教にはある。

色・・・対象

受・・・対象からの刺激を感受する部分。感覚器官。

想・・・感覚で受け取った刺激をあれこれと判断する機能

行・・・判断結果に基づいて生じる種々の感情や衝動。

識・・・前行程を認識する機能

 

で、問題は想の部分。

判断をするというところ。

その判断により、嫌悪とか欲求とかが発生するのだから。

智慧者と無知者の違いと言ったら、

物事をありのままに観れるか否か、などと語られるが、

つまりは、

智慧者は刺激として受け取ったものに対して執着を持たない捉え方をしており、

無知者は逆に執着を生む捉え方をし続けている、とも言えよう。

 

例えば、意地の悪い人がいたとして、

それを意地の悪い人だと判断すればそれは避けたいとか嫌だとかいう嫌悪感を作ることになる。

が、その意地の悪い人を見ても意地の悪い人だとは思わずに、ただそこに人がいるよな、という程度の判断だけだったらどうだ。特にどうということはない訳である。いようがいまいが気にならないだろう。

これはあくまでも単純な思考実験レベルの話ではあるが。

 

しかし、ブッダが語ることを思い返すと、

三法印と呼ばれる執着を捨てる為の重要キーワードである

無常・苦・無我の教えというものは、

まさにこの執着を生みだす判断を超えて、

無執着に至るための視点に立つことを述べているのではないかと考える。

そして、その視点に立って物事を捉えられるようになることを

智慧が発揮されている状態と呼んだのではないか。

そこにおいては執着は生まれず、ゆえに無執着の境地ということになる。

 

さて、それであるならば、

試しにこの視点で改めて物事を見直してみよう。

まだ嫌なものがどこかにあるはずだ、という思考回路

欲、というのはプラスとマイナスという感じで

2方向にポジションを形成しがちである。

一つ目は、対象への接触を望む欲で、通常使われる意味での欲しがること。

二つ目は、対象に触れないことを望む欲で、拒絶とか怒りとかに代表される破壊欲。

 

で、私としては結構楽しいこと好きで生きてきた為、

何かまだ良いものがあるんじゃないか?という漠然とした思考回路を

呑気に回転させ続けてきた経緯がある。

 

それはしかし、最近問題だなと思われて処理する対象になったので、

その回路の働きはのさばらせていた頃に比べてかなり弱体化したと言える。

が、その逆の働きには思いを馳せていなかった。

つまり、「まだ嫌なものがあるはずだから、それを消さねば!」という思考回路の

働きである。

 

リスクを意識するとか言うけれども、

つまりは恐怖だ。現在、未来に対しての。

そして、それらを排除すれば自分の人生はいい状態でいられるという思い込みがそこにはある。

が、それを達成したとしても、人生が良くなるなんてことは本質的にはない。

人は必ず老い衰え死ぬわけで、その上で小躍りしている状態に違いはない。

その状況を冷静に見れば、拍子抜けの感が個人的には否めない。あなたはどうか?

 

さて、そんなわけで嫌なものをことごとく根絶やしにした方が素晴らしいのだ!

という、暴君思考をその通りだと信じ込んでいる判断回路から何が生じるかと言えば、

それらの発生に対する嫌悪・敵意・警戒・不安感・焦燥感である。

これは現在既にあるものだけではなく、目の前にはない未来のもの隠れているかもしれないものに対しても向けられているので、平穏であるはずの休日ですら何となく落ち着かないなんて状況を生み出す。

 

長いこと感じていた違和感の原因を一つ見つけられた気がする。

よかった。