不十分だという判断、についての考察
不十分、という判断が認識に生じるとその状況を拒絶したくなる衝動が起こる。
不十分な状況はダメだ、というわけである。
が、不十分であるという認識を離れることが出来れば、
それで人生が良くなるとでもいうのか。
逆に、不十分ではないという認識が生じることにそんなに価値があるのだろうか?
そんな一瞬の認識状態のどこにそんな価値があるのだろうか?
今日の内面観察のお話しです。
美しいものに対する期待、について
美しいものを好む。
理由は今もよくわからない。
ただ、そこに対する期待が心を美しいものへと不用意に執着させる。
美しいものを求め続ける道なき彷徨へと心を急かす状態を形成している。
実際のところ美しいものを見たとき、
それを美しいと思う、という認識状態が生まれるだけで、
それによって生の構造が変わるなんてことはない。
老い衰え、時に病になり、いずれ死ぬという生の流れは止まらない。
そこにおける苦の構図はそのまんまだ。
美によって人生が良くなる、なんていう考えが生まれるのは
美しいと思うその一瞬の興奮した認識状態の味に
ずっと酔っていられれば幸福だという決めつけが生じた為だ。
酔っ払いにとって酒に酔うことが全てになってしまうように、
この場合は美に酔うことが全てになってしまっている。
だが、その酔いというのも一瞬の認識状態であって覚めてしまう。
だからまた酔いたくなって求める。
その渇愛の輪の中で心は浮き沈みを繰り返すことになる。
短絡的な決めつけや誤った認識が心にもたらす終わりのない渇きを止める方法だ。
美に触れた際に生じる一瞬の認識状態に酔って、生に対する誤った判断をしている思考回路を、冷静な現実の観察によって修正する。
美のもたらすその認識状態が発生したところで、老い衰え死ぬという人生の流れは変わらない。愛するものは移ろい滅びる。美があろうが、別に生の構造そのものが良くなることは無いと冷静に見ていけば見出せるだろう。
これらの視点がこれまでの酩酊した美に対する考え方に修正を加え始めれば、
心は美への執着に支配されなくなる。酔っても仕方ない、ということに気付ける。
渇きは止むことだろう。
無知の働き、についての考察
無知、という煩悩があるとされる。
であるが、欲や怒りに比べてその働きがわかりやすいとは思われず、
何となく曖昧であるな、というのが長年の個人的感想である。
ただ、ここのところその無知について、
正体を見定めようとその働き方を追っている。
で、今日思ったことがある。
以下にイメージ図を書く。
------------------------------------------------------------
①親無知 (生きることの中に)
↓ 「何かいいものがあるはずだ」と思っているが具体的には思いつかない。
②子無知 「✖✖になったら、そうなるのかも知れない。」と思っている。
↓
③孫無知 「✖✖になったら、そうなるはずだ!」と強く思っている。
-----------------------------------------------------------------
③の無知レベルの場合、欲と怒りが具体的な対象に向かって生成されることになる。
②の無知レベルの場合、③に比べて強くはなく淡い程度だが欲しいなあ、とか、嫌だなあ、といった心の動きはその思考に伴って生じてくる。
①の無知レベルの場合、心は何となく焦っている。浮ついている。しかし、具体的な現象の中には②以上に何も期待できないことを知っているので具体的には欲しがらない。望まない。しかし、心は何となく何かいいものを探し続けて彷徨ってしまう。
こんな感じの構図で働いていなくもないな、と思えた。
即席なので、若干粗削りかもだが概ねいい線行ってるとは思う。
これが何なのか、と言えば要は心の状態についての説明のひとつである。
あなたの持っている思い込みが欲や怒りを産んでいるのです、という説明だ。
本当にそうなのかは興味を持った各人がそれぞれに自分の内面の働き方をよく観察して確かめればいいだろう。
以上、考察終わる。
住み良い世界、への執着
ブッダが語った人間の心についての詳細な分析と
悩み苦しみといった精神活動の諸問題に対する解決アプローチ方法の発見は、
実に偉大な発明であると思わざるを得ない。
その効果を目の当たりにした時、
同時に沸き起こる思いというのは、
世界中でこの強烈に有効性を持った発見が広く見直され共有され始めれば、
もっと世界は平和で住み良くなる、という発想である。
比較論だけで言えば、確かに住み良くなることは間違いのないことだと考える。
人間の心の闇、弱さ、醜さが一掃される方向に向かうからである。
だが、これはこれで執着性の思い込みなのである。
そして、上記のように考えることはあくまで比較論における結論の出し方であり、
平和で住み良いのはいい、という考えは比較上の結論であることに気付かないと、その思い込み描いた執着によって心にねじれが生じることになる。
実際には、生存というものが抱えるそもそもの性質により、生存形式が変わろうとも、比較論的にはマシだと言えたとしても、本質的には虚しいもの(苦)であることから出ているわけではないと言える。
やっぱり、人は死ぬのである。老いて弱りゆくのである。
そこから逃れることはない性質の存在なのである。
生とは所詮、その流れなのである。
そういう通奏低音の上で平和も文明も自己実現もふわりと乗っているだけで、
全ては時に押し流され形を失っていくものどもだ。
そんなことを今日自分の中に生じてきたねじれから、
自らの思い込みを辿って、修正した。