判断回路について
色受想行識、という心における認識発生の説明が仏教にはある。
色・・・対象
受・・・対象からの刺激を感受する部分。感覚器官。
想・・・感覚で受け取った刺激をあれこれと判断する機能
行・・・判断結果に基づいて生じる種々の感情や衝動。
識・・・前行程を認識する機能
で、問題は想の部分。
判断をするというところ。
その判断により、嫌悪とか欲求とかが発生するのだから。
智慧者と無知者の違いと言ったら、
物事をありのままに観れるか否か、などと語られるが、
つまりは、
智慧者は刺激として受け取ったものに対して執着を持たない捉え方をしており、
無知者は逆に執着を生む捉え方をし続けている、とも言えよう。
例えば、意地の悪い人がいたとして、
それを意地の悪い人だと判断すればそれは避けたいとか嫌だとかいう嫌悪感を作ることになる。
が、その意地の悪い人を見ても意地の悪い人だとは思わずに、ただそこに人がいるよな、という程度の判断だけだったらどうだ。特にどうということはない訳である。いようがいまいが気にならないだろう。
これはあくまでも単純な思考実験レベルの話ではあるが。
しかし、ブッダが語ることを思い返すと、
三法印と呼ばれる執着を捨てる為の重要キーワードである
無常・苦・無我の教えというものは、
まさにこの執着を生みだす判断を超えて、
無執着に至るための視点に立つことを述べているのではないかと考える。
そして、その視点に立って物事を捉えられるようになることを
智慧が発揮されている状態と呼んだのではないか。
そこにおいては執着は生まれず、ゆえに無執着の境地ということになる。
さて、それであるならば、
試しにこの視点で改めて物事を見直してみよう。