判断基準の変更
前述したように、判断行為が次の衝動を構成する原因となる。
故に、煩わしい衝動からの解放を目指すならば判断を無効化しなくてはならない。
といっても、その方法は既にブッダによって示されており、いわゆるヴィパッサナー瞑想を行えばよい。
観察瞑想と呼ばれるヴィパッサナー瞑想によって、判断機能が拠り所としている判断基準となる情報をアップグレードするのだ。
その更新内容はというと、現象・存在・認識が無常(あるいは空虚さ、不確かさ)であるという事実、生命は生老病死苦という枠組みの中にいるという事実などを盛り込むことと言ってしまってもいいだろう。
観察、という行為は判断基準の更新に有効な行為となる。
なぜなら、知らなかった・気付かなかった事実を知るというきっかけを作ることが可能であるからである。
今まで気づかなかった事実を確認したとき、人間の知的機能においてはそれは判断行為の材料にされる。例えばそれは、初めて犬と触れ合った子供が、いきなり嚙まれたとすると、「犬というのは危険だ!」と思うようになるのと同様の判断基準の獲得プロセスである。
では次に、ブッダがなぜ無常や生老病死苦などを観察することを説いたのかだが、それは判断基準の中にそれらの情報が組み込まれることで、各種の煩わしさを伴う衝動(煩悩とも言える)の産生プロセスを無効にする効果があるからと言える。
まず、物事が無常・苦・無我などであるという事実を現象の観察を通して発見する、という過程を体験することで、それは新しい情報として自然な形で判断基準に組み込まれる。
そして、実のところ新たに判断基準に組み込んだその事実というのは「物事には価値がない」ことを判断機能が判断するという結果を生む情報なわけである。
事象は無常で不安定で一時的で固有の実体などなく移り変わって消えてなくなる性質のものであり、また、生きることは苦しみの感覚によって行動が規制され、老いて死ぬか、病んで死ぬか、事故などの外傷で死ぬかする状態の枠組みの中にいることである。
何をしたとしても、その枠組みの中にいる。
何をしても、全て跡形もなく消えてしまう。
消えるとわかりきっている、そんな当てにならない幻と同質の物事を本気で愛せるだろうか?
何をしたって、苦しみに取り囲まれそれらが増加していく状況は変わらない。
その事実を分かったうえで、そんな状況を愛せよと言うのか?
当然、まともだったら醒めることになる。
(醒めないとしたら、事実を否定するような別の判断基準を抱えている。それは俗に思い込みと言われる。思い込みは実際のところ概念的産物なので、事実の観察を通して現実に直面していけば破壊することは容易だ。しかしながら、思い込みを愛しすぎている場合、現実を否定し思い込みを守ろうとするという態度が形成される。つまり、その概念的空想世界に逃げ込んで引き籠って現実の世界をひたすら否定し続けるような態度だ。これはこれでその人の選択上の自由だが、現実に即さないので思い通りにならないという強い不快衝動がその本人を襲い続ける結果を生むと思う。)
醒める=煩わしい衝動が生まれなくなる、という結果を生む。
これがブッダの発見した煩悩を滅ぼし執着を超える方法論だろう。
本当によく見つけ出した解法だ。天才的洞察力と冷静さと知的能力だ。
あくまでも実現可能な現実的アプローチの態度を崩さなかったところが驚異的だ。
実にすばらしい。
だが、世界というのは騒いでいる割にはこの方法論の実用性に気付いていないと思われる。心の問題など、ブッダの時代に既に解決方法が示されているというのに、現代においても社会問題などと言われて扱われている。
当の私も、このブッダの方法論に出会うまではまったく同様の条件だったが。
それぐらい、社会的には認知されていない。浸透していない。活用されていない。
非常に不思議なことだが、これもひとえに宗教というベールでくるまれてしまっているからということが原因か。また、宗教が形骸化してしまっていることの証左か。
ただ、方法論が現代にも情報として伝わっていることは本当に奇跡的幸運と言える。
以上、参考までに。