思索雑記

初期仏教、その他日常についての個人的思索、検討結果についての雑記ブログ

悟りマニュアル 2016.10.24

心の働きというのは以下の1~4の運動プロセスの軌跡。

①外部刺激入力

②感覚の発生

③発生した感覚についての価値判断

④判断に応じた衝動の発生

⑤前過程の流れの認識。

これは、仏教で言うところの色受想行識のことである。

 

煩悩というのは直接的には衝動を指すと考えてよい。

不安系、不満系、怒り系、焦り系などの衝動が心には生じうる。

判断に応じて衝動が生じるのは、質量をもつ物体には重力が生じるのと同程度の先天的性質。重力の作用を加味して科学技術が振舞うように、判断に応じて衝動が生じるという関係性を加味して心の制御を計画する。

 

③の価値判断のフェーズにおいて、入力された刺激から生じた感覚に対して『良い』と思いなせば欲しい・手に入れようという衝動が生じる。『悪い』と判断すれば、避けよう・消そう・遠ざけようという衝動が生じる。一般的に言えば、好き嫌いが発生する。

好きだという判断は、手に入らない状態に対して悶々とした衝動を引き起こす。

嫌いだという判断は、それと触れなければならない状態に対して怒りの衝動を引き起こす。

衝動の母はあくまで判断。判断を無価値化することで衝動は消失する。

 

例えば、絶望というのは「良い」と思っているものがある状態で、それが「完全に手に入りそうもない」と判断せざるを得ないような状況に追い詰められた際に生じる衝動である。さらに、死にたいという絶望状況にありがちな衝動は、死んだ状態の方が自分にとってはラクなのではないか?という判断から生まれた欲求衝動の発現形態の一つに過ぎない。結局、判断が衝動をつくっているだけだ。

 

判断の無価値化はこれとは異なる。

無常・苦(=空虚、無価値)・無我・生老病死苦の視点を判断基準に組み込むことで、

価値判断機能がその対象刺激を元々虚しいもの・無価値なものと判断する。

つまり、「あった方が良い」「無い方が良い」という判断そのものを無価値化するということである。実のところ、それがあっても大したことない・それが無くなっても大したことが無いという判断に至ることを指している。そうなると、刺激に対しての判断がそれを無価値なものと見なすため、なんと驚くべきことに衝動が生じなくなるという結果を生む。無価値だと判断したものに対しては欲しいとも遠ざけようとも思わないという反応を示す。そこにおいては、欲しいという焦りも、遠ざけたいという怒りの衝動も共に生じえない。

その衝動が無い状態というのは、言うなれば平穏。心をざわつかせ悩ませる衝動が無いのだから。その状態を味気ない・つまらない、と判断すれば嫌おうとする衝動が心に生まれるだろう。

 

 知っておいて損が無いのは、判断が衝動を生み続けていて、その衝動が心を追い立て・追い回し・責め立て・追い詰め・縛り上げ・不安にさせ・不満を抱かせているということ。それに気づけば、何らかの対処が出来るというものだ。

 

<具体的実践フロー>

①イライラ、そわそわ、不満、怒りなどの衝動が内面に生じていたらそれにまず気付く

②その衝動が生まれる際の原因となっている自分のしている価値判断は何か観察する。

 ヒントは「~であるべきだ」「~の方がいい」「~が嫌いだ」「~が好きだ」という判断。

③「私はそう判断しているけれども、果たして本当にそうなのか?その考えは的確か?」

 「こう判断する必要は本当にあるのか?」と一度まず自分に問いかける。冷静に。

④「所詮、人は老い衰えて死ぬ。それでも価値があるというのか?」

 「たとえそうなったとしても、それは永遠か?無常ではないのか?」

 などと、さらに自分に問いかける。

⑤「実際のところ老いて死ぬ、というのはどういうことか?」

 「ここで言う無常とはどういうことか?」と自らに問う。

 そして、納得できるまで現実を観察する。老い衰え死んでいくということなら、老い衰え死にそうな老人というものがどのような状態なのかよく観察する。いずれ自らもそうなることもきちんと念頭に置いて。

 無常についても、生まれたものが変わりゆくこと、消え去ることを観察してみる。

 理屈を理解することではなく、現実に起こっていることを自分の眼と頭できちんと見つめるということが重要。事実を観察を通して発見することで納得感を持った新たな事実認知という判断基準の更新の機会を得ることになる。